オリンピックにおける聖火リレーの火は、ギリシャのオリンピアで採られた聖火をトーチによって開会式まで運ぶものですが、トーチによって次々と受け渡された炎は一体何をもって”聖火”と呼べるのでしょうか。
物が燃える要因となるものはざっくり分けて”空気”と”可燃物”と”熱”の三つです。聖火リレーで運ばれる火で考えると、空気はその土地のもの、可燃物はトーチに込められているガスなので、全ての炎に共通した要素は”熱”のみだと考えられます。
確かに熱って言ってしまえばエネルギーのことですし、空気や可燃物と比べれば聖なるパワーを持っていても不思議ではなさそうです。
ギリシャの太陽光から得られた聖なる熱エネルギーが、トーチという名の依り代を次々と乗り換えていって平和の祭典へと届けられると考えるとなんだかアツいですね。聖火だけに。
ここまでの話を書くために聖火リレーについて調べていたら、オリンピックの聖火とパラリンピックのそれとでは少しルールが異なっているということを初めて知りました。
なんでも、パラリンピックで使う聖火は「パラリンピック聖火はみんなのものであり、パラリンピックを応援する全ての人の熱意が集まることで聖火を生み出す」という国際パラリンピック委員会の理念に基づいて、各地で採火された火が開催都市で集結することによって完成するそうです。
オリンピックの聖火は異国の地からやってきた伝統ある炎、対してパラリンピックの聖火は地元から少しづつパワーを集めて作られた炎。採火方法はそれぞれ異なりますがどちらも何らかのパワーを持っていそうですね。大会によって同じ儀式でも実施方法が異なっているのは面白いです。
ところで、特別な力を持った火と言えば「ハウルの動く城」に登場するカルシファーを思い浮かべます。
彼は燃える場所や燃料が変わっても自我を保ち続けているわけですから、聖火の炎と同様に、空気や可燃物によって特別さが証明されているわけではなく、熱エネルギー自体がカルシファーの本体なんじゃないかなと思います。
もっとも、僕はハウルの動く城の詳しい設定とかは知らないので、”実はハウルの命が燃料となってカルシファーを動かしていたのだ!”とかなのかもしれませんし、そもそもファンタジーを現実の物理現象で考察することがナンセンスであるのではないかとも思います。
閑話休題。特別な炎の”特別さ”がどこからきているかの考察に戻ります。
一つ言えるのは、昔と今とでは火に対する価値観がそもそも異なっていることを考慮しなければならないということです。
今の時代なら、火が欲しいときはコンロを付けるなりライターを付けるなりすれば簡単に手に入りますし、もっと言えば私たちが必要とするのは”熱”や”明かり”であって、火そのものが欲しいというシチュエーションはかなり限られているんじゃないかなと思います。
ですが昔の人にとっては、火を直接利用することで料理をしたり暖を取ったり明かりを確保したりしていたわけですから、火に対するありがたみが現代人とはレベルが違うのでしょう。
そう考えると、これ以上自分の素人知識で聖火の神聖さを考察することは不可能なように感じます。
あれこれ想像するのにも知識が必要だな、と感じる今日この頃なのですが、こういう生活には必要ないけど知っていると面白い知識ってどうすれば手に入るんでしょう?やっぱいろんな本を読んだほうがいいのかなー。