一人称が不安定な人をみると、(このひと、自分のパーソナリティが定まってなさそうだなぁ)と感じて好きになってしまいます。
話す相手が変わったとかお酒を飲んで気が大きくなったとかいうわけでもないのに、同じ人物と会話している最中にシームレスで「僕」を「俺」を使い分けていたりする人がごくまれにいます。
エンカウント率が低いうえ、いちいち人の一人称を気にしている人にしかその希少性に気付くことが出来ないので、人に話してもあまり理解を得られない趣味ではあるんですけど、だからこそ出会えた時の感動もひとしおというものです。
初めて他人の一人称に注目するようになったのは中学生のころ、さよなら絶望先生を読んでいた時です。
単行本最後には「紙ブログ」という、作者である久米田康治先生の本音と虚構が入り混じった怪文書があるのですが、その中で久米田先生が気分によって僕と俺が変わるという話があり、それを読んで以来人が使う一人称が気になって仕方ないたちに立ってしまいました。
ところで件の文章をもう一度確認したくて家にある絶望先生を読み直そうとしたんですけど、なぜか15巻だけなかったし読みたかった文章も見つかりませんでした。全30巻あって読みたい話が載ってる巻だけピンポイントで見つからないことあるんだ。
さよなら絶望先生はもっとも僕の人生観に影響を与えた作品で、近くにおいてあるとついつい読んじゃうからちょっと見えにくい場所に隠しておいたのが悪かった。明日ちゃんと探すけど見つからなかったら悲しいな……。
閑話休題。
気分で一人称が変わるのってなんかカッコいいなーと思った当時中二病真っ盛りの僕は(別に今もですが)、早速自称を増やそうと「僕」と「自分」を使い分けるようになりました。
久米田先生の例にならって、通常時は「僕」、少し強気なときは「自分」と呼ぶというのがマイルールです。
初めてしばらくのうちは当然意図的に呼び分けをしていたのですが、数か月も続けると一人称の使い方が身に沁みついてゆき、やがて意識することなく「僕」と「自分」を使いこなせるようになりました。
自称を使い分けるようになってしばらくして気づいたのは、たとえ自分が弱気なときでも意識して自らを「自分」と名乗るようにすると、本当に周りに対して強気になれる、ということです。
もともと自己暗示が好きで自分を元気づけるためのマイルールをたくさん持っていた僕ですが、こんなに強力な暗示が手軽にできてしまうことに驚くとともに興奮した記憶があります。
簡単に自分の気持ちをコントロールできるおまじないではあるんですけど、一人称による気分の揺れ動きを強く意識しすぎると自らが軽い多重人格者になったような感覚を覚えるようになるので注意が必要です。というかやらないほうがいいです。
自分が相手と接しているときに、「自分は~」と語っているのを意識してしまい(僕ってこの人に対して強く当たれちゃうんだ……)というのを自分で認識するのは、ちょっと心が疲れてしまうことがあります。
で、一人称が不安定な人に魅力を感じるという話に戻します。
自分が養殖ものの複数自称所持者なので、似た話し方をする人は一体どのような経緯で不安定な一人称になってしまったのか興味がわくんだと思います。
これまでの人生で三人、自称を使い分ける人と遭遇したことがあるのですが、全員人前に立って話す職業の人なので、自分と他人との距離感を適切に保つための意図的な使い分けが身に沁みついてしまったのではないかと推測しています。
職業によって自らの認識が変わるのは当たり前のことだと思うんですけど、一人称という自己認識に多大な影響を与えるポイントにまで作用しているのって僕的にかなり面白いなぁと思います。
おかあさんといっしょに出演する歌・体操のおにいさん・おねえさんたちも、自分のことをおにいさん・おねえさんと名乗っているうちにより一層おにいさん・おねえさんとしての自覚が芽生えてきたりするんでしょうか。
まぁ他人のパーソナルな部分を勝手に想像しても仕方ないですね。人には人の一人称、関係ない人間は見守ることしかできません。
僕にできることは、歴代のおにいさん・おねえさんが偉い人と話しているときにもうっかり「おにいさんは~(超ハキハキボイス)」と言っちゃったりすることあるのかなぁとか考えてみることくらいですね。